
裏歴史
東京タワーができた年、その足元で徳川将軍の墓が掘り起こされた。
東京・港区芝公園。増上寺の裏手、東京タワーを見上げる一帯に、東京プリンスホテルと、ザ・プリンス パークタワー東京が建っている。宿泊客が眺めるのは、ライトアップされた東京タワーだ。
この土地には、かつて徳川将軍家の霊廟があった。増上寺は、上野の寛永寺とならぶ徳川家の菩提寺で、六人の将軍――秀忠、家宣、家継、家重、家慶、家茂――とその正室・側室たちが、壮麗な廟に葬られていた。廟の多くは、1945年の空襲で焼けた。
そして1958年、その焼け跡で、将軍たちの墓が開けられた。
学者が、将軍の骨を測った
戦後、増上寺は境内の再建計画を進めるにあたり、将軍家墓地を改葬(整理・移設)することを決めた。その際、墓をただ移すのではなく、埋葬されている遺体を学術的に調査することになった。担当したのは、東京大学の人類学者・鈴木尚らのグループだ。
1958年から1960年にかけて、将軍や正室の石棺が開けられ、遺骨と副葬品が取り出された。頭骨が計測され、身長が推定され、歯が調べられ、着衣や装飾品が記録された。将軍たちの体格や病歴、血縁関係が、科学の対象として分析された。調査を終えた遺体は、桐ヶ谷斎場で火葬された。
結果は、1967年に『増上寺徳川将軍墓とその遺品・遺体』という分厚い報告書にまとめられた。鈴木は後年、一般向けに『骨は語る 徳川将軍・大名家の人びと』も著している。江戸に君臨した一族の身体が、そこに数値と写真で並んでいる。
跡地には、ホテルが建った
改葬のあと、徳川家の墓所は増上寺の安国殿の裏手に、こぢんまりと集約された。現在、参拝できる「徳川将軍家墓所」がそれだ。将軍六人と側室・子女の墓標が、鋳抜門の内側に静かに並んでいる。
そして、廟が建っていた広い土地には、ホテルが建てられた。文昭院(家宣)や有章院(家継)の廟跡は東京プリンスホテルに、台徳院(秀忠)や崇源院(江)の廟跡はザ・プリンス パークタワー東京になった、とされる。
淡々と行われた
これを暴きだと言うのは、たぶん正確ではない。改葬は増上寺自身の判断で、調査は正式な学術プロジェクトとして行われた。遺体は火葬され、墓所は今もきちんと祀られている。手続きに問題があったわけではない。
ただ、時代の空気は感じ取れる。ほんの100年前まで、将軍の墓を開けることなど誰も考えられなかった。それが戦後の東京では、都市の再建と学問の名のもとに、淡々と実行された。ちょうど同じ年、すぐ隣で東京タワーが組み上がっていた。古い頂点が地面から掘り出され、新しい頂点が空へ伸びていく――その二つが、同じ場所で同時に起きていた。
今夜、あのホテルに泊まる人は、自分の部屋の真下が、かつて誰の眠っていた場所なのかを知らない。


