UNDERGROUND TOKYO
戦争のために造られた「もう一つの東京」がある。

裏歴史

戦争のために造られた「もう一つの東京」がある。

現在の東京は明るい。地下鉄が走り、巨大ビルが建ち、24時間人が動く。

しかし80年以上前、この街は「攻撃される首都」として設計し直されていた。

空襲。防空壕。地下施設。軍事施設。

東京の地下には、戦争を生き延びるために造られた空間が、今も現存している。

地下へ逃げる東京

第二次世界大戦末期、東京は大規模な空襲を受けた。人々は防空壕へ逃げ、重要施設にも防護空間が造られた。

皇居には御文庫や御文庫附属庫と呼ばれる防空施設が設けられたことが、公的資料でも確認できる。「東京の地下に戦時施設があった」というのは、都市伝説ではない。れっきとした事実だ。

街は上書きされた。だが消してはいない

終戦、復興、高度経済成長。地下鉄、高速道路、オフィス街。

戦争のための東京は、急速に日常の東京へ覆われていった。防空壕の入口は塞がれ、軍施設は別用途になり、次の世代はその場所が何だったのか知らなくなる。

本当に不気味なのは、秘密基地ではなく「忘却」の速さだ。東京の裏歴史は地下に隠されているのではない。日常という分厚いコンクリートの下に、そのまま埋め込まれているのだ。

首都の地下に築かれた巨大要塞

皇居の防空施設は、氷山の一角に過ぎない。

現在の防衛省市谷地区には、地下15メートルまで掘り下げられた「大本営地下壕」が今も残る。鉄筋コンクリートで固められた通路は南北に3本、東西に2本が交差し、幅48メートル、奥行き52メートル、壕内の高さは4メートル。500キロ爆弾にも耐える設計の、正真正銘の巨大地下要塞だった。

しかもここは、SNSで話題になるような「立入禁止の廃墟」ではない。事前予約さえすれば、誰でも見学ツアーで実際に入ることができる。同じ敷地内には、東京裁判(極東国際軍事裁判)の法廷そのものが復元・保存された「市ヶ谷記念館」もある。かつて日本の運命を決めた場所と、その裁きが下された場所が、地下と地上で背中合わせに存在しているのだ。

さらに西の八王子・高尾には、陸軍の倉庫として掘られた「浅川地下壕」がある。面積約2万4千平方メートル、総延長は約10キロメートル。日本最大級規模の地下防空壕だ。

そして、これらの軍事施設だけではない。東京23区内には今も、寺社が独自に築いた市民用の防空壕が残る。成願寺の防空壕は長さ約30メートル、面積約80平方メートル。本堂や風呂、トイレまで備えた、いわば地下の生活空間だった。

皇居から市谷、八王子、そして街なかの寺社まで――戦時中の東京は、幾重にも重なる地下空間のネットワークだった。多くは戦後、国と自治体による埋め戻し事業の対象となり、姿を消していった。それでも、すべてが消えたわけではない。

出典: 時事ドットコム「大本営地下壕」防衛省「市ヶ谷地区見学の御案内」Wikipedia「防空壕」

「聖断」が下された地下室

その中でも特に重い歴史を背負っているのが、皇居・吹上御苑の地下に造られた「御文庫附属庫」だ。

1941年8月、陸軍築城部本部の手で着工され、同年9月には宮内省へ引き継がれた。表向きは大本営会議などに使う防空施設だったが、戦争末期、この地下室は日本の運命を左右する場所になる。

1945年8月、ポツダム宣言受諾の可否をめぐる御前会議が、まさにこの御文庫附属庫で開かれた。昭和天皇が終戦を決断した、いわゆる「聖断」が下されたとされる場所だ。

戦後長らく一般には公開されなかったが、終戦70年の節目にあたる2015年、宮内庁が初めて画像と映像を公開した。地上からは分からない場所に、日本の近代史を動かした部屋が、今も残っている。

出典: 宮内庁「御文庫附属庫の写真」

東京には「もう一つの東京」がある。秘密都市ではない。予約すれば、今日でも入れる場所だ。