
刑場跡・歴史
品川の住宅街近くに、江戸の「処刑場」があった。
東京・品川。
電車、幹線道路、マンション、ホテル。現在の景色からは想像しにくい。
しかし江戸時代、この周辺には有名な刑場が存在した。
鈴ヶ森刑場。1651年に開設された、江戸の入口に位置する刑場だ。
そしてその跡地は、今も普通に見学できる状態で、第一京浜のすぐ脇に残っている。
なぜ街の入口に刑場があったのか
鈴ヶ森は東海道沿い。江戸へ入る人、江戸から出る人が必ず通る場所だった。
刑罰を人々に見せることには、犯罪への抑止という意味もあった。火刑や磔など厳しい刑が行われたと伝えられている。ただし後世の講談や芝居で物語化された部分もあり、伝承と史実は分けて見る必要がある。
現在の東京との落差
最も不気味なのは幽霊ではない。場所が普通になりすぎていることだ。
車が走る。人が生活する。電車が通る。数百年前、そこが処刑の場だったことを知らなければ、気づく理由がない。
当然、刑場跡には怪談も生まれる。夜に声を聞いた、人影を見た、写真に何かが写った。しかしそれらを史実として扱うことはできない。確認できるのは、刑場が存在した歴史と、その歴史を知った人々が怪談を作ってきたことだけだ。
東京の怖さは、幽霊がいることではない。何万人もの人が毎日通る場所に、誰も気づかない過去が眠っていることだ。
今も残る「首洗いの井戸」
品川区南大井、京浜急行・大森海岸駅から徒歩10分。第一京浜(国道15号、旧東海道)沿いにある大経寺の境内が、その跡地だ。
ここには、処刑に実際に使われたとされる台石と、切り落とした首を洗うために使われたと伝わる「首洗いの井戸」が、今も現存している。柵の外から誰でも見ることができる、決して立入禁止の廃墟ではない。信号待ちの車列のすぐ横に、その石と井戸は静かに座っている。
恋のために死んだ女、講談になった男
鈴ヶ森刑場の記録に残る名前の中には、後に歌舞伎や講談の題材となった者たちもいる。
元禄期、恋人に会いたい一心で自宅に放火したとされる「八百屋お七」は、この鈴ヶ森で処罰されたと伝えられている。また1679年、25歳の若さで処刑された平井権八は、裸馬に乗せられて刑場へ引かれ、磔にされたのち、三日三晩そのまま晒されたという。
刑場そのものの規模も記録に残っている。1695年の検地によれば、間口40間(約74メートル)、奥行8間(約16メートル)。東海道に面したこの場所を、江戸へ向かう旅人たちは日常的に通り過ぎていた。
お七や権八の物語は、やがて舞台の上で語り継がれる悲劇になった。だが舞台の外では、ここは実際に人が処刑され続けた場所だったという事実が、静かに残っている。
出典: Wikipedia「鈴ヶ森刑場」
見せるための刑罰
江戸時代の刑罰には、軽い順に下手人・死罪・獄門・磔・鋸挽・火罪という6段階が存在した。中でも獄門は、小塚原や鈴ヶ森の刑場に台を設け、罪人の首を3日2晩さらし続けるという、威嚇を目的とした重刑だった。
鈴ヶ森という場所そのものが、単に人を処罰するためだけでなく、「見せる」ことを前提に設計された装置だったことになる。江戸へ出入りする無数の旅人の目に触れる東海道沿いという立地は、偶然ではなかった。
現代の私たちが刑場跡を歩くとき感じる不気味さは、幽霊の気配というより、この「見せるための暴力」が日常の往来のすぐそばにあったという事実そのものだ。
出典: Wikipedia「獄門」


